2024 1学期末テスト 安城西中 3年歴史 問題
テスト対策イギリスやアメリカ、フランスなどの列強は資源や市場を求めてアジアやアフリカに進出し、植民地を広げていきました。このような動きを( )といいます。
日本が欧米と対等な地位をもつためには( )の改正が最も重要な課題でした。 そんな中、1894年に( )外相はイギリスとの間に( )条約を結び、領事裁判権の撤廃に成功しました。また1911年には( )外相がアメリカとの条約に調印して、関税自主権を回復しました。
和歌山県沖でイギリス船が沈没し、日本人全員が水死しましたが、イギリス人には軽い罰しかなかったため、世論からの声が高まりました。この事件を( )といいます。
朝鮮では1894年に東学を信仰する農民が南部で蜂起を起こしました。これを( )といいます。その鎮圧に向かった清と日本が衝突し( )に発展しました。日本はこの戦いに圧勝し、1895年4月に( )が結ばれました。この講和条約で( )半島や台湾が日本のものとなりました。日本は台湾に( )を設置して植民地支配をすすめました。
清と条約を結んだ日本に対して( 国名: )は、( 国名: )や( 国名: )と共に日本が獲得した遼東半島を返還するよう勧告してきました。これを( )といいます。
日清戦争で敗れた清から朝鮮が独立を宣言し、1897年に国名を( )に改めました。また清から様々な利権を手に入れようとする各国がそれぞれ進出しました。これを( )といいます。
この頃、日本では伊藤博文が( )の結成を行いました。それはこれ以後、政党の中心となっていきました。
清の国内では、清にやってくる外国を排除しようとする人たちが蜂起(一揆みたいなもの)を起こしました。しかし日本を含む各国がそれを鎮圧しました。これを( )といいます。《北清事変》ともいう。
ロシアとの戦いが迫った日本はロシアに対抗するためにイギリスと( )を結びました。これは「日暮れに結んだ」と覚えて、1902年を記憶しましょう。
戦争が迫る中で社会主義者の( )や、キリスト教徒の( )が開戦に反対したが、政府は1904年に開戦にふみきり( )が始まりました。
日露戦争では両国とも戦争の継続が困難になり、( )の仲介で講話会議が開かれ( )が結ばれました。この条約では十分な賠償金が得られなかったため、国民は東京で( )と呼ばれる暴動を起こしました。
日本は韓国の外交権をうばって保護国にして( )を置きました。初代の統監には( )が就任しました。
1910年、日本は韓国を植民地としました。これを( )といいます。韓国は朝鮮と呼ばれるようになり、今までより強い権限を持つ( )を設置して武力で支配をすすめました。
日本は満州の南部を勢力範囲とし( )を設立し、鉄道を中心に炭鉱の開発などをすすめて満州での利権を独占しようとしました。
中国では清をたおして、近代国家を作ろうという革命運動がおこりました。その中心となったのが( )を唱えた( )です。彼が臨時大総統となり( )を首都とする( )が建国されました。これを( )といいます。その後、大総統となったのが( )でした。彼は首都を( )に移し、独裁的な政治を行いました。
日本は、北九州に日清戦争で得た賠償金で官営の( )を建設しました。産業が発達する一方で( )の鉱毒事件のような公害問題も発生するようになりました。
資本主義の発展とともに労働者が増加しました。労働条件を改善するために( )が結成されました。その結果、政府は( )歳未満の就業禁止、労働時間の制限などを定めた( )を制定しました。
産業革命が進む中、三井、三菱、住友などの資本家は様々な業種に進出して経済を支配する( )に成長していきました。
近代文化
作者 作品など
( ) 「無我」などの日本画
( ) 「老猿」などの彫刻
( ) 「湖畔」などの印象派の明るい画風
( ) 「荒城の月」「花」などの作詞
( ) 「みだれ髪」などの短歌
( ) 「たけくらべ」などの小説
( ) 「吾輩は猫である」「坊っちゃん」
( ) 「舞姫」「最後の一句」などの小説
( ) エクアドルで黄熱病の病原体を研究
( ) 破傷風の血清療法を発見
( ) 小説「破戒」、詩集「若菜集」
植民地の奪い合いの中で、ヨーロッパの中では対立がおこりました。イギリス・ロシア・フランスは( )を成立させ、ドイツ・オーストリア・イタリアが( )を結びました。この2つのグループの間で( )と呼ばれる緊張が続きました。
バルカン半島ではスラブ民族の独立運動が盛んになり( )と呼ばれていました。こうした中、( )政策を採るロシアが独立運動を支援しました。
1914年( )の皇太子が( )でセルビア人に暗殺されると、ドイツ・オーストリアを中心とする( )国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする( )国とに分かれて第一次世界大戦が始まりました。日本も( )を理由に参戦しました。
第一次世界大戦では各国が国民、経済や科学技術を総動員して国力を使い果たす( )となりました。
第一次世界大戦が長引くとロシアでは「パンと平和」を求める労働者などの反乱が続きました。彼らは社会主義者の( )の指導の下で新しい政府を作り、「代表会議」を意味する( )が各地に設けられました。これらの出来事を( )といいます。
日本はロシア政府の方針に反対し、ロシア革命への干渉戦争を起こし、( )を行いました。ロシア政府はこの戦いに勝利して、( )という新しい国を成立させました。
レーニンの後に指導者となった( )は共産主義化を優先し、1928年から( )を始めて、重工業の増強と農業の集団化を強行しました。
第一次世界大戦は連合国の勝利で終わり、翌年に( )会議が開かれました。講和条約の( )ではドイツは領土を縮小され、巨額の賠償金を課せられました。
アメリカの( )大統領の提案で世界平和と国際協調を目的とする( )が発足しました。その本部は( )に置かれ、日本も常任理事国となりました。
1921年にはアメリカの呼びかけで( )が開かれ、海軍の軍備の制限や中国の独立などが確認されました。またこの会議でアメリカ・イギリス・フランス・日本の間で( )が結ばれ、日英同盟は解消されました。
1919年にドイツで定められた( )は世界で初めて社会権を保証するなど、後の日本にも影響を与えました。
第一次世界大戦では日本は中国に対して( )を示し、山東省の権益をドイツはから引き継ぐなどの内容を認めさせました。 戦争が終わると中国では半日運動が起こり( )と呼ばれる全国的な運動へと発展しました。
日本の植民地となっていた朝鮮では、日本からの独立運動が広がっていきました。これを( )といいます。
インドでは( )の指導の下で、非暴力・不服従の抵抗運動が高まりました。
シベリア出兵で米の値段が上がると、米の安売りを求める騒動が起こりました。これを( )といいます。
米騒動の後に内閣を組織した( )は陸軍、海軍、外務の3大臣以外をすべて立憲政友会の党員で組織する本格的な( )を始めました。
政治学者の( )は民本主義を主張し、普通選挙や政党内閣制の実現を説きました。また憲法学者の( )は、主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関とする考えを主張しました。このように大正時代に民主主義が強く唱えられたことを( )といいます。
第一次世界大戦後は労働運動が盛んになり、ストライキなどの( )もしきりに起こりました。また1920年には最低賃金制などを要求する( )も開催されました。
1922年には京都で( )が結成され、差別からの解放を目指す運動が進められました。また女性差別からの解放を目指す運動も盛んになり、( )は「新しい女」を目指し( )を結成しました。
加藤高明内閣は1925年に満( )歳以上の男子に選挙権を与える( )を成立させました。これによって有権者はそれまでの約( )倍に増加しました。またこの法律が制定されると同時に( )が制定され、共産主義に対する取りしまりが強められました。
1925年に東京・大阪・名古屋で始まった( )放送は全国に普及し、新聞と並ぶ情報源になりました。
1923年9月1日に東京・横浜を中心に大地震がおそい、壊滅状態となりました。これを( )と呼んでいます。
文学では( )が「羅生門」「蜘蛛の糸」などの優れた作品を発表しました。また小林多喜二は、労働者の生活を描いた作品を発表し、これらの作品は( )文学と呼ばれ流行しました。
1929年、ニューヨークの株式市場で株価が大暴落して、多くの銀行が倒産しました。これは世界にも広がり( )となりました。
恐慌の対策として、アメリカは( )大統領の下で( )を始め、積極的に公共事業をおこして、失業者を助けました。また、イギリスは本国と植民地との関係を密接にし、オーストラリア・インドなどと貿易を拡大する一方、それ以外の国には関税を高くしました。このような政策を( )といいます。
民主主義を否定して、個人よりも民族や国家を重視し、対外的な武力による侵略を主張する考え方を( )といいます。イタリアでは( )党を率いる( )が領土問題などへの国民の不満をあおりながら首相になりました。
ドイツでは( )を率いる( )がベルサイユ条約に対する国民の不満をあおり、( )人を迫害するなどし、ドイツ民族の優秀さを強調して注目されました。
日本では1924年以降、憲政会と立憲政友会が交互に政党を担当しました。二大政党の党首が内閣を組織する慣例のことを( )といいます。
アメリカから始まった世界恐慌は、1930年に入って日本にもおよび( )と呼ばれる深刻な不況が発生しました。
中国では孫文の死後、新しく国民党の指導者のなった( )が国内の統一を始めました。
中国内に滞在していた関東軍は1931年、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを機に軍事行動を始めました。これを( )といいます。満州の主要地域を占領した関東軍は、清の最後の皇帝であった( )を元首とする( )の建国を宣言しました。
日本が起こした②の軍事行動について、中国が訴えました。その結果、満州国を認めず、占領地からの撤兵を命じられた日本はこれに反発して( )を脱退しました。脱退後、孤立を深めた日本でしたが、ドイツとの間に( )を結び、ファシズム諸国に近づきました。
1932年、海軍の青年将校が首相官邸をおそい、( )首相を暗殺しました。この( )事件によって政党内閣の時代が終わり、軍人が首相になることが多くなりました。また1936年には、陸軍の青年将校が大臣などを殺傷し、東京の中心部を占拠しました。これを( )事件といいます。
中国では抗日運動が盛り上がる中、( )が率いる共産党が、国民党に協力を呼びかけて内戦を停止しました。
1937年、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中両軍の武力衝突をきっかけに( )が始まりました。日本軍は、首都の南京を占領し、その過程で女性や子どもなど多数の中国人を殺害しました。これを( )といいます。
日中戦争が長引くと、1938には( )が制定され、政府は議会の承認なしで労働力や物資を動員できるようになりました。1940年には政党は解散して、新たに結成された( )に合流しました。
植民地の朝鮮では、日本語を使わせ、姓名を日本式に改めさせるなどの( )が進められました。